急加速
黒色の喰
登場人物
カケリ、コワレ
いつもの通り、ちょっかいをかけられて、それに呆れての時間だと思っていた。同僚である軍事局局長のコワレは、こちらをからかってくることが多い。ほぼ毎日されていれば流石に慣れてくるが、今日だけは違った。急に静かになって見つめてきたかと思えば、ぽろりと零れるように「カケリが好きだ」と呟いたのだ。あまりに急なことに驚きつつも、その真意を聞こうとした瞬間、彼は走って逃げてしまった。
さっきからどうしてもその事が気になって、仕事の進みが悪い。彼のことだ、いつものようにからかっているだけだろうと一度は飲み込んだものの、改めて考えてみると違和感ばかりが残る。もう一度会って直接聞いてみるべきだろうか。いやしかし、去っていくときの様子は普通ではなかった。一旦、他の誰かに相談した方がいいかもしれない。
「それで。どうして私に白羽の矢を立てたんですの? イノリの方が適任なのではなくて?」
「まだあの言葉が本当かどうかが分からないからな」
様々な知識を広く浅く持つ記録局局長のウタイは、相談相手に打ってつけだ。……と、みんな考えることは同じで、ここには妖が集まりやすい。彼女は少し鬱陶しがっているようだが、なんだかんだで話はちゃんと聞いてくれる。
「本心か冗談かが知りたいのなら、直接聞けとしか言いようがありませんわ」
「やはりそうか……」
「あ、カケリさんがいるなんて珍しい」
声のした方を向くと、イノリがこちらに歩いてきていた。彼女も相談をしに来た……わけではなさそうだな。溢れ出る野次馬オーラが、私にも話を聞かせろと圧をかけてくる。相談の内容を簡単に説明すると、彼女は目をキラキラと輝かせ、身を少し乗り出して質問をしてきた。
「もしコワレさんの言葉が本心だったとして、カケリさんはイエスとノー、どちらで返すんですか?」
「急に言われてもな」
「回答くらい用意しておかないと。それに、私は冗談じゃないと思うんです。冗談のときは必ずそう言ってくれますもん」
確かにそうだ。からかっているだけなら、今のは嘘だ冗談だと彼は必ず言う。今回にもそれを当てはめるなら、あの言葉は本心だということになるが。
とりあえずあの言葉を信じるとして、悲しいかな、恋愛経験なんてものは生まれてこの方一切ない。もちろん誰かに好意を伝えられたのも初めてだし、好きだと言われてから蠢き出したこのよく分からない感情も、今まで経験したことがない。
「考えるほど分からなくなる、何が正解なんだろうか」
「正解なんてないと思いますよ。後悔するかしないか、です」
相手のことが嫌いではないなら、とりあえず付き合ってみて、どうしても好きになれなかったら別れてしまうという方法もあると、イノリは続けた。あまり優柔不断な性格ではないと思っているが、これは経験則に基づいて答えを導き出せない問いだ。こんなに悩むなんていつぶりだろう。答えが出せればいいのだが。
***
流石に建物内にはいるだろうと考え、コワレを探して、彼の執務室へとやってきた。物静かなダークブラウンの扉をノックしてみたが、返ってくる言葉も音もない。名前を呼んでみても反応はなし。部屋の中にいないのか、誰が来ても出ないつもりなのか。このまま待っていても何も変わらないと早々に結論を出し、開けるぞと断りを入れてから扉を押して開く。
ほのかなコーヒーの香りと沈黙が支配している部屋の中には、誰の姿も見当たらなかった。再度名前を呼んでみるも、結果は先程と同じ。これ以上この部屋で何かをしても無意味だろう。
こういうときに次に探すのは、仮眠室の中と決まっている。ただし、仮眠室には、緊急時以外は勝手に開けてはならないという暗黙の了解がある。外からでは中に誰かいるのかすら分からないため、昔は使用中の札をかけるようになっていた。ただ、手動で変更する必要があったため、忘れてばかりで定着せずに消滅した経緯がある。
……と、今はそんなことはどうでもいい。また先程と同じように扉をノックし、名前を呼んでみる。なんとなく予想はしていたが、静かな空気に自分の声が吸い込まれただけで、何の返事もない。もちろん、この一回で諦めるわけもない。絶対に中にいる可能性の方が高いのだから。
「私だ、カケリだ。お前を責めに来たわけじゃない、私の思いを聞いてほしいだけだ。いるなら何か音を返してくれないか」
また沈黙が落ちる。
「部屋から出なくていい、扉越しでいい。声も出さなくて構わない。ただお前がそこにいるかどうかを確かめたいんだ」
しばらく待っていると、微かに扉をコツンと叩く音が聞こえた。……やはりここにいたか。反応するまで間があったり、茶化しに出てこないあたり、彼が私のことを好いているのは事実なのだろう。
ここからは、私の思いを一方的に投げることになる。彼の反応を見られない今の状況では、余計なことを口にして、彼を傷つけてしまうかもしれない。緊張で震え出した手を握りしめ、慎重に言葉を紡いでいく。
「正直に言うと、私は自分の気持ちがまだ分からない」
自分はどうしたいのか、彼のことをどう思っているのか、その答えは追えば追うほど遠ざかり、どんどん分からなくなっていく。明日、明後日と、もっと時間を使って考えれば欠片くらいは掴めるかもしれないが、果たしてそれは本当に自分が思っていることなのだろうか。感情に任せない理性的な判断を何十年と続けてきたおかげで、時間をかけて考えるほど、私の頭は感情を置き去りにしていってしまう。だから、一番最初に浮かんだ思いを、そのまま彼に伝えようと。
「だが、お前の言った好きだという言葉に対して、それに込められた想いに対して、嫌だとは思わなかった」
彼のことは苦手で、さもすれば嫌いとも言えるくらいの感情を持っている。と、頭では思い込んでいた。しかし、好きと言われても、それを頭の中で思い起こしても、嫌悪感など少しも湧かなかった。
「あれが冗談でないなら、私にチャンスをくれないか。お前の隣に立って共に歩むチャンスを」
ここで急にコワレが出てきて茶化される……なんて景色が見えた気がするが、ただの幻覚だったようだ。相変わらず扉は黙ったままで、彼が今どう思っているかも、どんな顔をしているかも分からない。急かすのは良くない、ここで少し待ってみるか。
時計をまったく見ていなかったおかげで何分経ったか分からないが、カチャ、という音とともに、仮眠室の扉が少し開いた。中から誰かが出てくる気配はない。入れと言うことだろうか?
入るぞとひとこと言ってから、ゆっくりと、彼が拒絶することのできる速度で部屋へ入る。開けた扉を閉めようとした瞬間何かに飛びつかれ、声や動きには出なかったものの、情けないくらいに驚いてしまった。
「本当は、あの言葉は、死んでも言わないつもりだったんだ」
飛びついてきたのは当然のごとくコワレ本人で、顔は見えないが少し震えている。声も潤んで言葉は途切れ途切れ。どんな状態なのかは想像に難くないが、何も言わずに彼の言葉を待つ。
「あの時、お終いだと思った。もうダメだって。……でも、でも。終わりじゃ、なかった」
私よりも遥かに彼の方が悩んでいたのだろう。あれだけ私をからかって仕事の邪魔をして、そんな状態で告白したって断られるに決まっている……と、きっとそんなふうに。断られるのが怖かったのか、もっと他の理由があって想いをひた隠しにしていたのかは分からない。質問したいことは多くあるが、今は聞くべきではない。
「今度はちゃんと言わせて。……カケリ、ボクはキミが好きだ。さっきの言葉が本当なら、ボクのパートナーになってほしい」
決心したように私から離れると、まっすぐにこちらの目を見てそう言った。改めて面と向かって言われると少したじろぐが、私の思いはさっきと変わらない。
「ああ。これからよろしく頼む」
「……ふふ、ちょっと固いのもキミらしいや」
まだ何もかもが分からないが、これからひとつずつでも飲み込んでいければ。辿り着いた先の景色を空想しながら、今までとは少しだけ違う日常を、またぐるぐると繰り返していこう。