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強くて脆い貴方へ
黒色の喰

登場人物

カケリ、コワレ

隅まで綺麗に掃除され、控えめに白く光る壁が、床が、妙に不気味に見えた。床を蹴る靴の音が反響し、孤独感すら覚える長い廊下をゆっくりと歩く。この廊下はこんなに人がいなかっただろうか。もっと、他の足音や話し声が聞こえていたような気がするのは、心の穴が生み出した幻想だろうか。

本当は行くつもりはなかった。仕事が積もっているから……では決してないが、ただ、行ったら行ったで馬鹿にされそうだったからだ。自分が行かなくたって何も支障はない。必要のないことをするほど暇でもない。


やっと辿り着いた扉をノックして開けると、廊下より真っ白な部屋が出迎えてくれた。己の黒い部分が浮き出てきそうなほど眩しい。

「やァ、キミは来ないものだと思ってたけど」
「私も来るつもりは毛頭なかった」

目眩すらしそうなほど白いベッドに横たわっているのは、軍事局局長のコワレ。同僚であり、後輩であり、一番苦手な相手だ。

現在、この国で最も強いとさえ言われる彼は、先日の無法地帯からの襲撃を迎え撃っていたときに大怪我を負った。彼が言うには「甘く見すぎた罰」らしいが、そんなことがあるものか。私は、彼ほど相手の実力や状況を見極め、適切な判断を下せる人物を見たことがない。それはつまり、無法地帯で本格的に国を脅かす存在が出てき始めたという事実に他ならない。

「体が勝手に動いちゃうくらい心配だったってこと?」
「ほざけ、そんなわけがあるか。お前の生命力は嫌というほど知っているのに」
「ふふは! 確かにね。ボクの悪運の強さはキミが一番よく知ってる」

自分が人一倍規則に煩い人物であることはよく分かっている。内務局の局長である以前に、昔からそういう性格であるから。故に、常にギリギリを攻め、たまに道を外れる選択さえする彼が許せないのだ。いつか報いがあるぞと何度言い放ったことか。だが彼は、何度死に近付いても絶対に戻ってくる。まるで死神にすら見放されたように。

「そのうち不死だなんだと持て囃されそうだな」
「それも面白そうだ。いっそ行くとこまで行っちゃおうかな」

あぁ、またこの顔だ。声のトーンも口調も酷く楽しそうで、口許も緩みきっているのに、目だけは遠い哀しみを湛えている。己の運命を嘆いているというのか。己の悪運を呪っているというのか。……また死に損なった、なんて言うつもりなのか。

ここまで言葉を選んでいたが、キッパリと言い切ってしまうなら、私は彼が嫌いだ。規則を守らないところも、変にちょっかいをかけてくるところも、無駄口ばかり叩くところも。だがそれ以上に、まるで自分に罰が下ることを待ち望んでいるかのような言動をするのが嫌いだ。確かに咎められて然るべき部分に足を突っ込むこともあるが、安らぎの鐘として、国の責任者の一人として、平和を維持するために命を懸けて戦っているのだ。他者のためにそこまでできる人物が、何故断罪を待ち望んでいる?

「嫌そうな顔するねぇ。大丈夫、仕事がこれだしキミより早く死ぬよ」
「……」

来るつもりはなかったのにここへ来たのは、これのせいだ。無用な心配だとは思うが、なんとなく、放っておいたら自ら全てを終えてしまいそうな気がする。嫌いな奴とは言えど、仕事仲間として、情を抱いていないわけではない。きっと彼がいなくなれば相応の感情を抱くだろう。それが自分にどう影響するかは分からないが、そんなことで後悔するなんてことだけはごめんだ。


途切れた会話を続ける気にもならず、もう仕事に戻るかと立ち上がろうとしたところで、彼はひと言呟いた。

「……もう、疲れたなぁ」

珍しく笑顔ではなかった。宙を見つめながら放った、誰に向けてもいない言葉。無意識に出たともとれる小さな呟き。

掴み取るべきではない。そう判断し、立ち上がって踵を返した。

「私はもう戻る。束の間の休息でも楽しんでおけ」
「またいつでも来ていいよ〜」
「来るわけがないだろう」

彼といると調子が狂う。自分から会いに行くなど仕事でなければ絶対にしない。少しだけ蠢く心を押し殺しながら、足早に部屋を後にした。


◆••┈┈┈┈••◆••┈┈┈┈••◆


来たときより何倍も速い足音が遠ざかっていく。……また一人だ。でも今は辛くない。緩む頬とゆっくりとした鼓動で、安堵を得たことを知る。

彼は嫌かもしれないが、彼のおかげで何もかもを投げ出さずに済んでいる。自身を正当化する言葉をつらつらと並べ立てるどうしようもないロクデナシを、彼だけが全て蹴飛ばして悪だと言い続けてくれる。

……独り善がりな酷い感情だなんて分かっている。いつか終わるときがくるはずだから、今だけはどうか。

「幸運だってそう続かないはずなんだ。だから、あと少しだけ。あと少し、だけ……」

ボクが死ぬまででも、キミが痺れを切らすまででもいい。この愚かな存在を、許さないでいてくれないか――

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